助けを求めたくても声をあげられない人も、見捨てられない仏の慈悲

来る者は拒まず、去る者は追わず」という考え方は、一見すると、寛容で、良いように思われますが、ブッダの教えでは、冷たい考え方だと教えられます。

それは、なぜか。
本当に苦しむ人は、救いを求めることさえ、できないことを知られていたからでした。

医者にも、病院に来る人を診察する宅診と、病人の家にまで足を運び、診察する往診があります。
病院に来る人(来る者、必要性を感じている人)を対応することは当たり前ですが、病院へは行きたくない、または、行けないという人(去る者、必要性を感じていない人)であっても、手遅れになってからでは遅い為、ブッダは、自ら苦しむ人々のところへ飛び込み、教えを説いていかれました。

本当に大切なことならば、たとえ最初は、相手が聞こうと思っていなくても、放ってはおれません。

言っても分からないからと、見捨てる様なことを、ブッダはされませんでした。
1回言ってもダメならば、2回。
2回でダメならば、3回と、分かるまで何度も話をされました。

それだけ大切なことであったからです。
どんな手を使ってもでも、伝えようとされました。
自分の命をおびやかすことがあってでも。

そんなブッダの信念は、お弟子にも伝わっています。

釈迦十大弟子の一人である、フルナ尊者が、他の宗教が信仰され、かつ、ガラの悪さには定評のある、某国への布教許可を求めた時のことです。
心配なされたブッダは、
「フルナよ、もし、その国の大衆が、お前をののしり、
はずかしめるようなことがあったら、どうするか」
と、尋ねられました。

フルナ尊者は、即座に答えました。
「あり得ることと覚悟しております。
しかし、石をもって打つことまではしないと思います」
ブッダは、重ねて、
「もし、石をもって打つことがあれば、どうするか」
「はい、しかし刀までは用いないと思います」
「もし、刀を用いたらどうするか」
「たとえ、暴行されても、命まで奪うことはないと思います」
「もし、殺されたらどうする」

ブッダの弟子を想う慈愛は、暖かく徹底していました。
その時、フルナは、さわやかに答えました。
「死の縁無量でございます。病死する者、水死する者、
焼死する者、事故死する者、人間一度は死なねばなりません。
たとえ、私の命を落とすことがあっても、
一人でも真実の教えを知り、ほんとうの幸福に救われるならば、
これにすぎたる本望はございません」

ブッダは、初めて微笑なされて、フルナの願いを許されたと言われています。
燃えるがごとき、この様な決死の信念がなければ、正しく仏法は伝え切れないからである。
それだけ大切なことが教えられているからこそ、たとえ命を失おうとも、伝えずにおれないという燃える信念になるのです。

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