自分も知らない本当の私とは。ブッダが明かす「幸せになる為の自分探し」(前編)

幸せへの一歩は自己を知ること

自分を知ることが大切だと至る所で言われています。それは、自分の事がわからなければ、その自分、私が幸せに生きることができないからです。

たとえば、誕生日をお祝いしたいと思っても、その人がどんな事を喜ぶかを知らなければ、相手に喜んでもらうことはできません。どんなケーキが好きなのか、どういうものがほしいのか、これを知らないと、思いもしない結果を招いてしまうことがあります。

ある有名人の誕生日の時の話ですが、その人を驚かしたいということで、周りの友達がサプライズで、大勢の人を呼んで、誕生日パーティーをしたそうですが、それに対して、「俺、こういうのはいいから」と腹を立てて、ものすごい空気になってしまったことがあるそうです。

家族だけでゆっくり過ごしたいと思っていたそうだったのですが、その予定が壊され、また、折角来て頂くならば、来た人に喜んでもらわないと申し訳ないという気持ちがありましたが、呼んだ友人たちは、サプライズをするだけで、来てもらった人達に対してのことを何も考えていなかったそうです。その人自身のポリシーにも反することをしてために、大激怒となってしまったとのことでした。

誕生日を祝ってもらうことは嬉しいことですが、自分のポリシーに反することをされると、面白くないと感じるのは、誰しも共感するのではないでしょうか。丁度、この様に、何をすると喜ばれるのか、逆に何を嫌うのかがわからないと、相手のことを思って、大変な努力をしても喜んでもらうことはできません。

分かっているようで、自分のことがわかっていない

私自身にも同じことが言えます。私とは何か。これが本当にわかっていなければ、心から喜ぶ生き方はできません。

私達は、分かっているようで、自分自身のことは案外わからないものです。よく「気だけは若い」と言われることがありますが、自分は若いつもりでも、体がついてこないということがあります。私は高校時代にバレーボールをやっていました。部活を引退し、大学生となって、運動らしい運動をしていない中で、久しぶりに、OB会に参加して、高校の部活に参加したことがあります。頭の中では現役の時の動きが繰り広げられていましたが、全然体はついていかず、ジャンプは低いは、足は動かないは、スパイクも空振りの連続でした。あげくのはてに足がつって、そうそうに見学に。。。

また、自分自身の内面も案外わからないものです、食事するときも、「今日の気分は?」と考えても、これが食べたいとハッキリしないこともありますし、食事くらいならばいいのですが、自分の進路について考えているときも、自分自身が何をしたいのかがハッキリしないという悩みを抱えている人も少なくありません。実際に働き始めた人でも、本当にこんな日々でいいのかと、疑問に思うことがあっても、何をすればいいかがわからず、どこか違和感を感じている人も少なくありません。分かっているようで、わかっていないのが、私だと言われます。

知るとのみ 思いながらに 何よりも 知られぬものは 己なりけり

という言葉があります。どんなことよりも、自分のことはよく分かっているつもりですが、実は、一番わかっていないものが、自分自身だということです。

他人の目

私達は他人の目を通して、自分とはどういうものかを知ろうとすることがあります。

「無くて七癖」という言葉がありますが、自分自身では気が付かなくても、周りの人にはよくわかることがあります。この他人の目にどう写っているのか、これを非常に気にしており、最近ではSNSで、赤の他人のフリをして、自分の家族や友人と友達となって、自分のことをどのように思っているかを探っている人があります。そして、それらの周りの人の評価で、私達は一喜一憂しています。

しかし、この他人の評価がいつでも正しいかというと、そうではありません。なぜならば、私達が、人を評価するときには、自分の都合を抜きには見ることができないからです。「この人が嫌い!」となれば、その人の言動がどれも気に入らないものに感じます。逆に、自分の好きな人ならば、たとえどんなことでも、悪くは見れません。時折、有名人が犯罪を犯して捕まることが報道されます。その逮捕後に、刑務所へ移動する最後のときに、報道陣の前で深々と頭をさげて、謝罪するシーンがありますが、そういう時によくファンが「頑張れよ」「信じているからな」「待っているからな」と言葉をかけているところを目にします。許されざることをしているので、逮捕され、刑務所にいくのですから、その人のやったことは決していいことではありません。しかし、その人が好き、となれば、たとえ犯罪であっても、「何か訳があったはずだ」、とか、「一時の気の迷いだ」、「こうなったのは〇〇が悪い」と言ったり、書いたりしています。好きになれば、もう悪いとは思えないのです。ですから、私達は、そういった好きや嫌いという感情を抜きに、人を見ることができません。裁判員が参加する裁判でも、犯人の供述を聞くまでは、非常に重い刑罰を求刑されていた人が、供述を聞いて、それが翻るという事も1回や2回ではありません。やったことは変わらなくても、その人の心で、コロコロ評価が変わります。

反省

また、ゆっくりと己で振り返るということがあります。心を落ち着けて、自分で自分を見つめるということです。自己反省は大切なことではありますが、これで自分自身の事が正しく見れるかというと、これも非常に難しいものです。私達は、自分を正しく評価することができません。どうしても自分には甘くなってしまうものです。社内でルールがあっても、ついつい手を抜いてしまうことがあったり、自分の後輩や家族に対しては、〇〇しなければダメでしょうといいながら、自分もついつい手を抜くことがあります。そんなときは、これは△△という事情があるから仕方ないと許すこともしばしばです。何かと自分には甘いことはないでしょうか。これは頑張った自分へのご褒美と色々なことを許すこともあります。

調子がいいときはまだいいのですが、何か悪いことがあったり、問題を起こした時は、自分を正面から見ることができません。

傍から聞いていれば言い訳にもならないことでも、言い訳として口に出てしまうのは、自分が悪いと思えていないからです。また、何か人から注意を受けたときに、素直に受け止められないのも、自分が悪いとは思えないからです。

続き

本当の私を知るには? そんな中で、どうすれば、正しく自分の姿を知ることができるのでしょうか。もし正しく見れなければ、本当の幸せにはなれません。丁度、病気の原因を的確にわかっていないために、根本治療ができないようなものです。多少は症状が緩和[…]

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